●プロフィール

 松田 至弘 まつだ よしひろ

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   大正7年7月8日生まれ 蟹座 

   武蔵野市野球連盟 境クラブ 監督

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がんばる業:武蔵野市野球連盟 境クラブ 監督

         九州佐賀県出身。

         昭和8年・・・・・・。百貨店勤務。下宿先は洋服屋。手伝いをし、見ようみまねで洋裁を身に付けた。

         昭和14年・・・・・。戦時下で砂糖が手に入りにくくなり、勤めていた『文明堂』を辞め、東京を目指した。

         「東京に行けば、もっと金になる。」

         同年『中島飛行機武蔵野製作所』へ入社。プロペラの軸を作る部署へ配属される。現在の都立武蔵野

         中央公園にあたる広範囲に中島飛行場はあった。

         昭和19年11月、米軍機B29は初めて中島飛行場を空襲。目の前で同僚たちが次々と命絶えてゆく。

         頭上を、目の前を、B29は何度も通り過ぎた。右で、左で爆発する。その間をぬって走り、逃げる。

         地下は深さ10メートルもあろうかという防空壕があったが、決して逃げ込まなかったという。埋もれてしま

         い、這い出せなくなる。現在も54名の方々が、その地中から発見されていない。

         自分は何故生き残れたのか今でも不思議でならないという。

         池袋に強制疎開していた頃は、道に黒く膨れた遺体がゴロゴロと転がり、スコップで遺体を隅田川に放り

         何日も食事が出来なかったと当時を振り返る。

         終戦後、池袋からパンクしたリヤカーを牽き、武蔵小金井を目指した。

         「今考えるとよく牽いて来れたもんだと思うよ。」

          

         そして2、3年後には、武蔵境にある現都立武蔵高校のグランドを借り、少年野球大会を企画・主催した。

         野球は小学校3年生の時からやっていた。学校でも1、2を争う駿足だった事もあり「目立ったんだよ〜」と

         照れ笑い。

         主催した大会は4,5チームが集まった。賞品には長野の知人が送ってくれた「りんご」を出し、それも目を

         引いた大会だった。地元の名士や重鎮にも声をかけ、華々しく開催した少年野球大会は大盛会となり、そ

         の後、武蔵野警察防犯課野球チームの監督兼コーチを依頼された。

         昭和26年、横河電機が主催したノンプロの野球チーム『武蔵野クラブ』に誘われ、ピッチャーで活躍する。

         その後現役ピッチャーとして、様々なチームで60歳を過ぎても登板していたというから驚きだ。

         そして、武蔵野市役所の職員の野球チーム、少年野球チーム、商店街のチームなど何チームも掛け持ちで

         監督・コーチ・現役で野球と関わっていく事になって行った。

         昭和41年、関わっていた少年野球チームがリトルリーグ関東大会で優勝を果たす。

         そして、その頃の子供たちが大人になり「境クラブ」を立ち上げた。境クラブに所属しているメンバーは少年

         時代に松田監督に野球の真髄を叩き込まれた。大人になった今もグランドで監督の指示を仰ぐ。

         

         バッターボックスに立つ前に、必ずベンチの監督を振り返って確認する。サインを出す監督。大きく頷いて

         からピッチャーの方に向き直る。いまだに少年野球の頃のようだ。松田監督が短い言葉でひと言、二言

         指示を出すと、緊張した面持ちで「ハイッ!」と受ける。見ていて気持ちがよかった。

         中には、父親が少年野球時代に松田監督に教わったという若者がいる。

         20代から60代までの選手、約20名が所属している。「今年85になるんだってさぁ。最近友達が来て、そ

         の事に気がついたよ。自分ではもう85歳だとばっかり思ってたからね、得したよ。でも今年は無理かも(監

         督が)知れないよ・・・」
         
         
          松田監督は武蔵境のすきっぷ通り商店街で洋服屋さんを開業していた。戦前、下宿先で身に付けた技が

          身を助けた。

          紳士物、婦人物と何でも縫えた。このスーツは丹精込めて自分の為に縫ったもの。

          

          文明堂にいた頃はカステラ、どら焼き、洋菓子、和菓子など、何でも作ったそうだ。今はひとり暮らし。

          自分で買い物に行って、自分で作って食べるという。「昨日カレー作ったんだ。うまいんだぞー。」

          「この前市役所の人が来てくれてね、色々と施設があるんだね〜。ここ最近、先が心配で心配で仕方が

          なかったんだけどね。説明聞いたら、安心できたよ〜。」


趣味:今は無いけど・・・・・。

    「昔はボーリングが趣味でね〜。」トロフィーがたくさんある。ボーリング全盛期の頃、亜細亜大学の倉庫のところに

    ボーリング場があったそうだ。教え子に遊びに連れていってもらったら、賞品に『かぶと』があった。

    欲しくて欲しくて、大会に参加させてもらったら、100人中2位になったという。大きい方がよかったけど、小さい方の

    『かぶと』を手中に収めた。そこからボーリングを極めはじめ、ハイスコアはナント!283!プロボウラー中山律子さん

    とは、吉祥寺のボウリング場で開催された大会で隣同士で投げたという。「9フレまで私が勝ってた。テンフレで律子

    さんがストライクみっつ出して、負けたんだ・・・・。」その頃の勇姿も、額に収められ自宅に飾られている。


                 

    自宅に飾られているトロフィーと一緒に飾られているのは「境クラブ」のメンバーから贈られた寄せ

    書きの入ったバット。

    西武ライオンズ時代の「今久留主 成幸」選手のサイン入り

    バットも大事な思い出のひとつ。

    忘年会、新年会は欠かさず声をかけてくれるそう。

    「電話もしょっちゅうかけて来てくれる。」

    人徳なんですね。

お言葉:みんな甘えてるよね。事件が多い!

      野球のマナーも悪いね〜。グランドとボールは大事にしない

      と。グランドに挨拶しないで入るなんざぁ〜言語道断。

      監督がだらしないよね。飲んだり食ったりするだけが野球じゃ

      ないんだ。それが楽しみでやっちゃ駄目だ。

      お酒は美酒じゃないと駄目なんだ。

編集後記

戦前、戦中、戦後と、想像しただけでも過酷な日本を見事に生き抜いてきた松田監督。

今、戦争を語っても、想像すらできない若い世代が多く、全然伝わらない・・・これからの時代が不安だと仰っていた。

過去物、歴史上の出来事なのではない。まだまだ違う形で戦時下なのだと思う。

毎日のように起こる傷害事件、殺人事件、強盗、虐待・・・・・。

爆弾や拳銃という手段が、見た目変わっただけで、本質的にはもっと悪質に殺し合っているのでは?

何もない時代から、本当の意味での「楽しみ」「潤い」を時間をかけて作り上げて来たくださった方々。

私たちは、この積み重ねられた長い歴史の上に「平和」にあぐらをかいて暮らしている。そう痛感せずにはいられなかった。


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文責:jojitown hiromi 取材日:2003.1.15