●プロフィール

 福知 トシ ふくち とし

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   大正9年1月30日生まれ 水瓶座 AB型

   社会福祉法人 井の頭保育園創始者

   社会福祉法人 井の頭保育園理事長

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がんばる業:社会福祉法人 井の頭保育園創始者・社会福祉法人 井の頭保育園理事長

        20歳の頃から『保育』に携わっています。女性が仕事も持つ時代ではなかったのですけれど、初

        めはタイピストとして働いてみましたが自分が機械の一部になったみたいで嫌になってしまいました。

        本は沢山読みました。小説の影響を受けて「託児所で働きたい。」と思いはじめました。

        「自立したい・・・。」家を出しまして、金沢八景の海のそばにある虚弱児を集めた施設で専従で働く

        事になったんです。未経験で飛び込んで「子供達に申し訳ない。」との思いや、夜、家々に灯りが

        ともると切なくて、トイレでよく泣いていました。そこで半年、我慢しました。そして、保母学校に行こ

        うと決意しました。その頃、保母学校は夜間しかなくて、昼間、東京市立江東区深川洲崎保育園で

        働きながら、1年半通いました。23歳の時、江東区本所にあった日本母子愛育会の託児所で

        本格的に保育者として働きました。

金の星社発行 文:高木敏子 絵:狩野ふきこ
ほんとうに あった おはなしです。
五十年まえの ことでした。
日本のくにが、せかいの くにを
あいてに、せんそうを していました。
やがて、日本の町や 村は、
はげしい くうしゅうを うけはじめたのです。
五さいの けんちゃんと、ほいくえんの
やさしいトシせんせいを ちゅうしんに、
この おはなしは、はじまります。
昭和十九年八月三十一日までに国民学校の三年生から六年生までの子供は疎開をしていた。
数年経てば兵力となる大事な卵達だった。一年生と二年生、体の弱い子供達は町に残された。
そして、幼児や田舎のない子供達は保育園の先生や寮母さんと地方のお寺や温泉宿に疎開した。
同年十一月二十五日、主人公のトシ先生(福知トシ)を含む大人と、託児所の子供達は埼玉県平野村
に疎開をする事になった。
女の先生八名、保健婦、栄養士、食事係が各一名ずつ。三歳児二名、四歳児十名、五歳児と六歳児
四十一名。桶川駅から六キロの道のりを総勢六十四人の隊列が妙楽寺を目指し、歩いた。
大人も子供も戦争に翻弄され、それでも日々生きていかなくてはならなかった時代。
幼い子供達を守らなければならなかった親や保育者たちの苦悩や、戦時下でありながら楽しく過ごした
遊びや景色が鮮明に描かれている。
*おはなしのおわりに*から抜粋
■けんちゃん
日本が戦争をしていたとき、わたしがお母さんとわかれた日も、おなじでした。ただひとつちがうのは、
お母さんはもう二度とむかえにきてくれなかったということです。
戦争は、わたしのお母さんをうばいまいした。お父さんも、おじいさんも、おばあさんも、いもうとも・・・・。
そして近所の人も、すんでいた家も。わたしだけでなく、おなじような体験をした人は、ほかにもたくさん
いるのです。

■トシせんせい
「おーい、日本のへいたいさん。はやくせんそうやめてくれ!」
と、けんちゃんが五十年前にさけんでいた声は、いまでもわたしの耳のなかからきこえてきます。
一九八一年に、けんちゃんとお会いしたときのことです。けんちゃんは、そかいほいくえんの生活を
おぼえていないといいました。だれも語ってくれる人がいなかったのです。「おさないころのおもいでは、
なにひとつもっていない。」と、そのときポツリといいました。わたしは、おぼえているかぎりのようすを
話しました。
あかるくたくましいけんちゃんは、大きななみだをおとしていました。
二度と戦争によって、けんちゃんとおなじように、心のおくそこにふかいかなしみを持った子どもたちを
つくってはならないとおもいます。


        私も母を戦火で亡くしました。一時、保育を断念していました。

        戦後、保育所づくりに取り組み、銭湯で子供達を集めては、歌、踊り、ゲーム、お話をするようにな

        りました。私の武器でもある「お話」は活用しました。ラジオしか無い時代でしょ。楽しいものだった

        ようです。その内、あちらこちらに保育園ができ始めました。私はその頃、劇団前進座で9名ほどの

        保育をしていました。そして座の子ども達だけではなく、地域の子供達も受け入れるようになりまし

        た。夏休みの期間,井の頭の地域に保育園を作りたいと、一週間だけ、井の頭の弁天様の前で青空

        保育を試してみました。子ども達にはもちろんの事、ご家族にも大変喜ばれまして、是非続けて欲し

        いという事で、週に一回だけ、青空保育をしました。そして、それが週二回になり、三回になり・・・・。

        弁天様の上にある大盛寺の階段を、絵を描く時には一段おきに座って、机にするんです。子ども達は

        本当に発想が豊かです。その頃青空保育へ来る時、かばんの中にコップも持ってきていたんです。

        私がお話をはじめると、4、5歳の子どもが何も言わないのに私にお水を汲んで持ってきてくれるんで

        す。子どもに教わる事、たくさんありました。その内、寒い季節になって、大盛寺のご住職が本堂を使

        わせてくださったんです。

現在の大盛寺
大盛寺右手横に階段があり、
そこを降りると井の頭弁財天へと
通じている。

        けれど、檀家の方々に反対されてしまって、弁天様のちょっと先、プールがあったところ辺りに集まる

        ことにしました。親御さんからは、冬の間はお休みしては?という意見も出ました。でも、子ども達が

        大反対して朝九時から午後の二時まで、十五、六人で陽だまりを探してはあっちこっちに移動して

        ました。誰かが自然文化園(井の頭動物園)のキリン小屋が空いているという噂を聞いて、真面目に

        お願いしに行ったりしました。そして、明星学園の近くに空き工場があるというので、みんなで頼みに

        行って、一ヶ月だけ借りることができたんです。柱と屋根しかなく、ムシロをかけて寒さを凌げるように

        して、何とか昭和二十六年二月、この工場で井の頭保育園を正式に開園しました。入園する時の

        条件は「りんご箱を1つ持ってくる」でした。

        この辺りはお屋敷の大きい家が多く、保育園に子どもを預けていない方も協力してくださったんです。

        井の頭公園では、その頃花火大会があって人がたくさん集まるので、上野のアメ横から仕入れた飴

        を首から下げた箱に並べて「井の頭保育園の募金で〜す!」って公園内を売り歩いてくださってお金

        を寄付してくださったんです。りんご箱は椅子から机になり、床は張られました。

        その頃子ども達に人気のあった月刊誌に「チャイルドブック」というのがあったんです。そのチャイルド

        ブックが購入できない友達の為に、一人の子がお母様にお願いしてその子の分と毎月2冊を買って

        もらって上げていました。玄関では何も言わなくてもきちんと靴を並べ、紐靴の子がいると時間がか

        かるので待っていてあげ、待ってもらった子は「おまちどうさま。」と言うんです。些細なエチケットです

        けど、ここの地域の子ども達は優しかったです。子ども達に色々と教えてもらい刺激を受けました。

当時の写真の数々・・・。第一回目の卒園生は現在五十五、六歳に・・・。

        一ヶ月の約束のはずの空き工場は気が付けば十八年間もお借りしてました。

        そして、赤い羽根共同募金会が調査に見え、日本一貧乏な保育園と言われ、五万円の寄付を頂い

        て、オルガンを買いました。

        その後革新都政時代の追い風も受けて、都や市の補助と不足金は募金とチャリティーコンサートを

        開催して、旧井の頭保育園と呼ばれる新園舎に移る事ができました。

        チャリティーコンサートは杉並公会堂で、その頃とても流行っていた「カーナビーツ」というグループ

        サウンズが演奏をしてくれました。職員のお姉さまが新星堂の社長夫人でいらして、その他にも、

        武者小路実篤さんの六人のお孫さんも卒園生で、多勢の方々にご協力いただいて、コンサート

        は盛況でした。

34年間過ごした旧井の頭保育園

         旧井の頭保育園は、玄関を入ってすぐ、真っ赤なじゅうたんを敷きました。国会議員の人達はあの

         真っ赤なふかふかのじゅうたんの上を歩いているでしょ?子ども達にだって同じ思いをさせてあげた

         かったのです。特別な日はバナナ1本、とりもも1本を子ども達に食べさせたいと願っていましたから

         今では特別な日の給食はフルコースです。最近は鯛の塩焼きを1匹ドーン!と出します。最近は

         骨抜きの切り身が出回って、魚の形やお頭付きを家庭で出す機会があまりありません。目の前で

         職員が骨を取って、骨に気をつけて食べる経験も必要だと思います。

         井の頭保育園では「合宿」があるんです。子ども達が一晩泊まるんですけど、普通、そういう日は

         親御さんに「何かあったら連絡をしますから、必ずお家で待機していてください。」って言いますが、

         この時こそ親御さんの解放の日でもありますから「保育園が責任を持ちます」って言っています。

         親御さんは「どこにお出かけしようか?」とその日を楽しみにしているそうです。

         今回の園舎建替えの件も、みなさんから協力していただいたのは有り難い事です。

         長い人生のうちのたった3〜5年ほどの保育園との関わりだったのに、50年も経った現在も園舎

         建替えに協力してくれました。地域の方々の、子どもたちの、共有財産として、保育園は歩み続け

         たいと思います。

2003年3月
新たなる歴史のスタートでもある「社会福祉法人 井の頭保育園」新園舎が竣工した。
段差が殆どない玄関。これなら小さい子も楽に靴が履ける。 出っ張りのない引き戸は縦に長いから身長差にも充分対応。
子どもの目線からでもよ〜〜く見える調理室。 手すりも優しい木で出来ている。角も、ちゃんとまぁ〜るい形。
保育園にありがちな鉄柵は檻のイメージ。
だからこんな可愛い丸にして、こぼれる日差しも楽しんじゃオ!
日差しがあちこちから燦々と降り注ぐ。
設計の高島氏(とーち設計)とは、
本当の意味で心が通じあったという。
両面から出し入れできるロッカーは
様々な観点から感心させられた。
心を寄せ合った人々の思いを随所に取り入れた新!井の頭保育園は、
これからまた数多くのドラマを、子ども達を中心に日々繰り広げるのだろう。


趣味:読書、旅行、演劇、映画、音楽・・・。とにかく生活が、毎日が楽しいです。

    目覚めると「あ〜束縛されない自由がある」と・・・。


お言葉:頑張ってなんか来ませんでした。貧しかったけれど、みじめとは思いませんでした。

      温かな子ども、おとな達に包まれていましたから、自然に、いつの間にか生き永らえてきました。

      生きているとなかなか面白いことがあります。時代や歴史の変化をこの眼で見る事ができました。

      24時間、自分の時間として自由な暮らしを丁寧に送ろうと思います。

今回の取材に際し、社団福祉法人 井の頭保育園 斉藤園長にも
ご協力を頂きました。
トシ先生と一緒に駆け抜けてこられた斉藤園長なくして
この井の頭保育園の歴史は、語れないのです。
お昼ご飯までご馳走になってしまいました。
この日は4月のお誕生会でした。
季節の素材をたくさん使った優しい献立。
美味しかった〜。

編集後記

今のこの豊かな時代からは、想像も出来ないほどの過酷な時代に常に先頭に立って走って来たトシ先生。

なのに トシ先生は「子ども達に教わりました。」とおっしゃる。

トシ先生の足跡は、その後を続く保育者達に、保育者としての誇りと勇気、パワーを数多く与えた。

目的はただ一つ。その目的から目を逸らすことなく、ただただ真に「子どものために、子ども中心に」を貫いてこられた。

真を目指し、真を追い求める時、ひとりよがりで叶うものでは決してない。

本当の真に向かって、人は損得勘定を抜きにして、その真を一緒に追い求める。

原点はいつの時代にあっても普遍的なもの。トシ先生の、柔らかく穏やかなお話のされ方は、本当に心地よい。


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文責:jojitown hiromi 取材日:2003.4.18